ポップコーンパパ ストーリー【エピソード1】海遊館の誕生と共に
今回は、ポップコーンパパがどのようにして出来たのか、またどんな歩みをしてきたかを書いてみます!!シリーズもんなんで、何回かに分けて。
ポップコーンパパの誕生
ポップコーンパパのお店が初めて日本に出来たのは、今から27年前の1990年。海遊館が開館した時から天保山マーケットプレースにずっとある数少ないお店。
ポップコーンパパの以前のオーナーである株式会社パルに勤めていた浜本さんと言う方が会社からの指令により、テキサスにあるポップコーン店で修業。
日本人向けに味を改良して、海遊館横の天保山マーケットプレースにお店をオープン!というのが、27年前の流れ。アメリカにあるポップコーンビジネスを日本に持ってくるのに、たくさんの苦労があったらしいです。
以前取引のあった株式会社中西商店とキャラメルポップコーンやその他の味の開発を時間をかけて試行錯誤しながらのスタートやったみたい。
今でこそいろんな施設があって、たくさん遊ぶところがあるけど、当時はUSJもないし、ショッピングモールもアウトレットもない時代。
お客さんはオープンした巨大水族館、海遊館に押し寄せまくったそうです。今の夏休みのお盆の時よりもっともっとすごい人が来場して、それはそれは混雑しまくってたみたい。
今では考えられへん。マーケットプレースにもお客さんはあふれかえって、オープン当初のポップコーンパパ天保山店は連日80万円以上の売り上げがあって、ほぼ毎日朝までポップコーンの製造が続いたらしい。
この影響があってかどうか、25年前にもポップコーンブームがあった。最近と同じく、日本中にポップコーン屋がタケノコのようにバンバンオープンしまくった。
そんな中、現在でも生き残ってるのはポップコーンパパのみ。ほかのお店は全て閉店してしまった。生き残れたのは、浜本さんの次の担当者、清水さんの努力がすごかったから。
浜本さんの後を引き継いで株式会社パルの清水さんが天保山店を切り盛り。
しかし、海遊館の人気も落ち着き、売上をしっかり確保するのは、相当厳しかったらしい。
大阪ドームに卸販売をしたり、催事を行ったり、いろんなことにチャレンジし続けた。当時は天保山店だけやったから、ほんまに大変やったと思う。
UCW店のオープン
その後、UCW店のオープン!!開店当時は狭いお店の中に10人以上のスタッフがひしめき合ってたらしい。
USJのオープンは、大阪をはじめ関西や日本中にとっても一大イベント!ものごっついお客さんが押し寄せて、もうえらいこっちゃ!やったらしい。
慣れないお店でほんまのてんてこ舞いの毎日。UCW店は、今とは内装も外装も全然違ってた。缶にポップコーンを入れて販売したり、お店の外にはガチャガチャがあって、店内では、ビールやカクテル、フローズンも販売してた。カウンター内にでっかい冷蔵庫や、ビールサーバーがあったもんな~。
当時の天保山店では、ポップコーンパパオリジナルのアイスキャンディーを売ってたり。お店のカラーも今とは違って、青と黄色がメインで使われてた。
UCW店はUSJ人気の恩恵を受けて最初は好調やったけど、パーク内でいろんな事故が多発。それに伴って来場客数も激減。ポップコーンパパも苦戦を強いられます。
そんな中、なんばの道頓堀極楽商店街という施設からの依頼があって、出店。以前は、なんばの道頓堀にもお店があった。
けど、相当売上不振やったらしく、半年で退店することに・・・。UCW店や道頓堀店の出店の間にも売上がしんどい時期が多く、ラウンドワンさんにポップコーンを卸販売したり、映画館にフレーバーシュガーを販売したりした。
Dreamsへの引き継ぎ
清水さんをはじめ、たくさんの方々の努力があって、ポップコーンパパは天保山店開店から15年経った時に、Dreamsに引き継がれます。
振り返ってみると、本当に数えきれない出会いやチャンス、失敗があって今のポップコーンパパがあるんやな~と感慨深いもんがある。
to be continued