「相対的」に短くなってしまった時間を、長く、豊かにする方法
時間って、人に平等に与えられてる資源やけど、その長さには人それぞれにとって、様々なものになる。どういうことかと言うと、全ての人にとって、一年は一年。しかし、その一年の感じ方、早さは、人によって違う。
「絶対的」な長さは「一年」。
それは、子どもにとっても大人にとっても、おじいちゃんやおばあちゃんにとっても「一年」。しかし、子どもの頃の一年と大人になってから感じる一年長さは、随分と違う。僕は、まだおじいちゃんの年齢になってないから、お年寄りの感覚はまだわからないけど、それでも子どもの時に比べて、あっと言う間に一年は過ぎて行く。この感覚っていうのは、「相対的」なもの。以前と比べて、それが長く感じるか、短く感じるかということ。ほとんどの人が年を取るに連れて、時間が短くなってくるんじゃないでしょうか?これって、日々の行動に刺激が少しずつなくなってるかららしい。
子どもの頃は、いろいろなことに感動し、ワクワクし、緊張し、喜び、笑い、驚いた。それがだんだんと何も考えなくても日常を過ごせるようになる。もしかすると、感動やワクワクも子どもの頃より、かなり少なくなってるかもしれない。
どういうことかと言うと、子どもの頃は電車に乗るのにも、緊張する。一人で出かける時なんかは、電車の時間や路線を何回も何回も確認して、そして緊張しながら降りる駅を逃さないように、アナウンスに耳を傾け、そして電車を降りる。そこから目的地までも普段通らない知らない土地やから、いろいろと考えながら進んでいく。
買い物もそう。お金を握り締め、少し緊張しながら、お店に出かけたりした。学校でも知らないことを学ぶことに、たくさんの刺激を受けた。しかし、大人になるに連れて、その子どもの時に感じてた感動、ワクワク、緊張が少しずつなくなってくる。当たり前に電車に乗り、当たり前に会社に行き、当たり前に買い物して、当たり前に日々を過ごす。そうしていくうちに、時間がだんだんと短く感じて、早くなる。
この「相対的」に短くなった時間を、また長くする方法がある。それは、言葉の通じないところに行くこと。そこで暮らすこと。
自分自身の経験でもあるが、アメリカで過ごした3年半の時間はとてもとても長かった。いろんなことが記憶に残っている。コンビニで買い物したこと、ビデオを借りに行ったこと、郵便局に荷物を届けに行ったこと、学校での授業、レストランでのアルバイト、何気ない日常に感じるけど、言葉が通じないから、ひとつひとつの行動が、大変やった。
なかなか言いたいことが伝わらなかったり、馬鹿にされたような目で見られたり、オーダーしたものと全然違う料理が来たり、ほんまに普通のことが全てうまくいかないことだらけで、今考えると、全てが特別なことになったのかもしれない。ただ、郵便局に行くのでも、最初にこういう風に声をかけて、そして次はこの質問をして、そしてこうしてこうしてと、かなり考えながら行ってたもんだ。
アメリカに行く前に東京に3年いたけど、その長さや思い出の多さはほんまに倍どころではないと思う。アメリカでの経験は鮮明な記憶が多いけど、忙しかった東京での生活の思い出は、なぜか少ない。
海外でなくても、国内の違う場所に行っても、時間の感覚は変わるはず。それって、人にとっての心の豊かさみたいなものになるんちゃうかなと思う。いろいろな新しいチャレンジも、もしかすると、そうかも知れない。自分にたくさんの刺激を与えてくれるもんね~。日々を予測された当たり前の中で過ごすことから離れて、自分に刺激を与えるってほんまに大切なことなんちゃうかなと思う。そうして、時間を豊かに使っていきたい。